私は、食べものの好き嫌いがない。努力して克服したわけでもない。気がついたら、なんでもおいしく食べられるようになっていた。
一方で、なにか特別に好きな料理もない。だから、「なに食べたい?」と聞かれると途端に困ってしまう。我ながら聞きがいのない人間である。
おかげで、海外でも食に困ることがない。2014年にはじめてネパールを訪れたときも、そうだった。ネパール料理というものを日本で食べたことはなかったが、出てくるものを片っ端から食べて、たいていおいしいと感じていた。
ネパール料理といえば、ダルバートである。 「ダル」は豆、「バート」はご飯。豆スープとご飯を中心に、副菜が何品かついてくる、いわばネパールの定食だ。日本ではネパールカレーなどと呼ばれることもあるせいで、私もなんとなくカレーの一種なのだろうと思い込んでいた。
カトマンズのレストランなどでは、煮込んだ肉や副菜がたっぷりついてくることが多く、たしかにカレーっぽい雰囲気がある。スパイスの香りが立ちのぼり、銀色の皿の上にいろいろなものが盛られている光景は、インドのミールスにも近い。
でも、ヒマラヤの奥地、標高3,000mを越えるような村に行くと、事情はがらりと変わる。畑の土は痩せており、野菜の種類も限られている。もちろん肉などない。そんな土地で出てくるダルバートは、きわめて質素だ。豆スープとご飯、あとはじゃがいもか青菜の炒めものが少し。それだけ。でも、もの足りなさはまったくない。

そして、ここでは「おかわり」が前提になっている。ご飯を食べ終えるころを見計らって、というより、まだ半分も減っていないうちに、おかみさんが湯気の立つ鍋を抱えて、すっと近づいてくる。
そして、ご飯がざっくりと盛られていく。ざっくりとはこのことか、と思うくらい、ほんとうにざっくりと。
日本なら、炊き上がったご飯はしゃもじで丁寧にほぐして、水分を飛ばしつつふっくらさせるのが普通だ。でもこっちは違う。スコップで土を掘るかのように、しゃもじで勢いよくすくって、そのまま塊ごとお皿にドン。衝撃とともにご飯が着地する。
おかわりをとめようとしても、だいたい手遅れである。「もういいです」と手で制しても、ニコニコとうなずきながら、さらにひとすくい。こちらの意思表示が通じたためしは、今のところ、ない。
しかも盛りがすごい。スプーンを立てたら倒れないんじゃないかと思うくらい、こんもりと山になっている。私は「ダンニャバード(ありがとう)」と言い、手でつかんで口に運ぶという行為をひたすら繰り返す。
目の前の山を平らげて顔を上げると、おかみさんは満面の笑み。
おいしいという言葉よりも、食べきるという行為が、なによりものお礼なのだ。
ある日、ふと思った。これは、カレーではなく味噌汁とご飯に近いんじゃないか。
豆スープは、スパイスで煮込まれているわけではない。主原料は、豆と水と塩。香辛料は控えめで超シンプルな汁物だ。口に入れたとき、複雑な風味が広がるわけではない。しみじみとした塩気と、豆のほのかな甘みだけが、静かに沁みてくる。副菜はあってもなくてもよく、あっても一品か二品。
豆スープをご飯に全部かけて混ぜる人もいれば、半分くらいかけて残りをスープとして飲む人もいるし、さらには、ちょっとだけかけてあとは交互に食べる人もいる。どの食べ方にも、作法らしい作法はない。ただ、自由に、ご飯とともに味わうだけ。
そんな光景を見ていたら、料理研究家の土井善晴さんの言葉を思い出した。
「ごはんと味噌汁さえあれば、それでいいんです」。
うろ覚えであくまでニュアンスだが、たしかこんな内容だったと思う。
それを私は勝手にこう訳した。「ダルとバートがあれば、それでいいんです」。
実際、ヒマラヤ奥地の村では、それしかないことも多い。けれど、それでじゅうぶんなのだ。ネパールの暮らしは、まぎれもなくこの一皿のなかにある。食べるものが毎日同じでも、ちっとも飽きない。ちょっと豆の煮え具合が違うだけで、それが今日の味になる。
私は、今日も手でダルバートを食べながら、やっぱりカレーじゃないな、と思うのである。





ダルとバートがあれば、それでいいんです。