第九回 余計な味がしない、ディド

宿のない村だった。茶屋もない。商店もない。ただ、人が暮らしている。それだけの村。
地図にも載っていない。

じつは、この先の峠へ向かうルートでは、ひとつ手前の集落が最後の村だと聞いていた。
だからここに人が住んでいるとは思っていなかった。

その日、一軒の家を訪ねた。泊めてもらうか、庭を借りてテントを張らせてもらうか。そ
のどちらかである。

「庭なら好きに使っていいよ」。家の主人は、あっさりそう言った。ありがたい。

テントを張り終え、日が落ちはじめたころだった。「ご飯、食べていきなよ」と、家の中
へ招かれる。

囲炉裏の前に座る。彼は黙ったまま鍋を火にかけ、大きな木ベラで何かをぐるぐると練り
はじめた。

ジャッ、ジャッ、ジャーッ。鍋底からその物体をはがす音がする。

この村に電気は来ていない。小さなソーラーパネルの灯りはあるものの、部屋の中は仄暗
く、鍋の中身がなんなのかはよくわからない。

主人はひたすら練っている。何を作っているのだろう。魔女の毒スープ、と言われたら少
し信じてしまいそうな雰囲気だった。これを食べたら最後、翌朝もう目を覚ますことはな
い......いやいや、まさかそんなお伽話のようなことがあるはずはない。

聞けば、作っているのはディドだという。

ディドとは、穀物を粉にし、水を加え、火にかけながら練り上げる料理である。この日の
穀物はトウモロコシだった。

ネパールの食事といえば、ダルバート(豆スープとご飯がメインの家庭料理)を思い浮か
べる人が多いだろう。たしかに町ではその通りだ。しかしヒマラヤの奥地では事情が異な
る。

標高が高く、米や豆が十分に育たない場所も多い。そういう土地で人々を支えてきた主食
が、このディドなのである。

以前、知人からディドの話を聞いたことがあった。付け合わせがいっさいなく、ディドだ
けを出されたらしい。「修行だったよ」そう言って笑っていた。その記憶があっただけ
に、私は少し身構えていた。

でも、できあがったディドの横には、真緑のスープがたっぷり添えられていた。シシヌ
(イラクサ)のスープだという。これにディドをつけながら食べるらしい。

見た目だけでは、おいしそうとも、おいしくなさそうとも言えない。ただ、原料はトウモ
ロコシと青菜である。まずくなる理由も見当たらなかった。

ディドを右手で少しちぎる。思ったより熱い。指先で軽く転がしながら少し冷ます。それ
でもまだ熱い。そのとき気づいた。手で触ることで食べごろの温度を知覚する。つまり、
ディドはスプーンではなく手で食べる料理なのだと。

手を使って食べるという行為は、口へ運ぶ前に一度、指先で料理と握手をする時間があ
る。そこで相手が何者であるかをざっくりと把握することができる。これはとても理にか
なったプロセスではなかろうか。そんなことを考えていると、私の中での手食の価値がま
すます高まっていく。

そんなディドにシシヌのスープをまとわせて、少しだけ緊張しながら口へと運ぶ。

トウモロコシの香りがすごい。ネパールのトウモロコシは日本のそれとは違って甘味や
瑞々しさがないので、穀物らしい粉っぽさや香ばしさ、素朴な旨味が、ダイレクトに舌に
届く。余計な味がしない。トウモロコシよりトウモロコシ。そんな感じがした。

実際、余計なものはいっさい使用していない。材料は、トウモロコシと水だけ。味付けが
ないのだ。甘くしようとも、しょっぱくしようともしていない。香りを足そうともしてい
ない。トウモロコシをそのまま食べてください。そんな潔い料理である。

食感は、餅ほど粘りはなく、マッシュポテトほどなめらかでもない。少しざらつきの残る
感じ。咀嚼はほとんど必要なく、喉ごしを楽しむというか、喉で潰しながら鼻から抜ける
香りも一緒に味わう、そんな食べ物な気がした。

スープは、ほうれん草のカレーから辛味とスパイスの尖りを取り除き、青菜の旨味だけを
じっくり引き出したような味だった。青菜のポタージュといったところだろうか。ディド
につけると、不思議なくらいよく合う。

派手さはない。豪華でもない。けれど、手が止まらなかった。

その土地ならではの食に触れると、私はいつも腰が重たくなる。のんびりしたくなると
か、めんどうくさくなるとか、そういうのではない。俄然、この土地に興味がわいてしま
うのである。

どうしてこんな料理が生まれたのだろう。どんな作物が育ち、どんな暮らしをつづけてき
たのだろう。そんなことばかり考えてしまう。

旅はまだつづくのだけれど、もうここでやめたっていいよね。いつもそう思う。それは、
ゴールを目指した瞬間、旅が旅ではなくなると思うからでもある。

根津貴央

ハイキングが専門分野のライター。
2012年にアメリカのロングトレイル「パシフィック・クレスト・トレイル(PCT)」を歩き、2014年からは仲間と共にネパールの「グレート・ヒマラヤ・トレイル(GHT)」を踏査中。著書に『ロングトレイルはじめました。』(誠文堂新光社)、『TRAIL ANGEL』(TRA...