第十一回 ヤギに恋をして

海外に行くと、ある選択を迫られることがよくある。ベジか、ノンベジか。

早ければ、行きの飛行機からはじまる。ネパールも例外ではない。ただし、ネパールは海のない国だ。川魚を食べる地域もあるにはあるが、日常の食卓で魚介類が出てくることはめったにない。つまり実質的には、野菜か肉か、の二択なのである。

ふたつしかないので、毎日どちらかを食べる。すると不思議なもので、野菜も肉も日本にいたころよりも好きになってくる。

飽きないのか、と聞かれることもある。でも考えてみてほしい。このふたつに飽きたら、どうなるのか。この地での食生活の終焉である。

人は会う回数が多い相手に親近感を抱きやすい、と聞いたことがある。学校や職場で毎日のように顔を合わせているうちに、なんとなく気になってくる。そんな恋のはじまりもあるらしい。

食べ物だって、似たようなものかもしれない。毎日会う。毎日食べる。そのうち好きになる。そして私の場合、こと肉に関しては、野菜以上に強く惹かれてしまう決定的な出来事があった。

西ネパールの標高4,000メートルあたりを旅していたときのことだ。

朝からずっと歩きつづけていた。細かな上り下りが多く、昼が近づくころには脚にじわじわと疲れがたまっていた。

前方に小さな村が見えてきた。お茶でも飲みながら休みたい。そんなことを考えながら進んでいくと、村の手前に水場があり、ひとりの老婆がしゃがみこんでいた。

何かを洗っている。近づいてみると、ヤギだった。正確には、すでに死んだヤギをさばき、きれいにしているところだった。

最初は祭りの準備かと思った。ネパールでは祝い事や祭礼のときにヤギを食べることがよくある。しかし、まったく違った。昨夜、ユキヒョウに襲われたのだという。

夜中にヤギの悲鳴が聞こえ、老婆はすぐに小屋へ駆けつけた。それで被害は一頭だけで済んだらしい。ネパールの高地では、ユキヒョウによる家畜被害は人々の暮らしに直結する問題でもある。彼女は、その一頭を食べるために処理していた。

話を聞いていると、彼女がおもむろに言った。

「ヤギ、買わないかい?」

思いがけず商談がはじまった。夫とふたり暮らしで、一頭まるごととなると食べきれない。かといって、捨てるわけにもいかない。そこへ私たちが現れた。向こうからすれば、ずいぶん都合のいい客だったに違いない。

そしてこちらからしても、彼女は救世主だった。このところ、ずっと野菜中心の食事だった。しかも毎日、何時間も歩いている。カラダが肉を欲していた。こんなヒマラヤの山奥で、昨夜まで生きていたヤギの肉が手に入るだなんて、買わない理由はなかった。

その日の晩、さっそくみんなで食べた。モモ肉、舌、耳、脳みそ。これだけ部位が揃えば、料理好きなら腕が鳴るところだろう。モモ肉はしっかり焼いて、舌はさっと火を通して、耳は食感を生かし、脳みそは......などと考えたくなる。

しかし、ここはネパールだ。油を入れて、スパイスをまぶして、全部まとめて豪快に火を通す。部位ごとの個性を尊重しようという気配はない。焼き方も味付けも同じ。それがネパール流である。

これがじつにうまかった。

臭みがない。噛むと肉の味がぐっと出てくる。舌には舌の弾力があり、耳には耳の歯応えがある。脳みそはぷりぷりしている。全部同じ鍋で炒められているのに、口に入れれば、それぞれちゃんと違う。ひさしぶりの肉だったからだろうか。食べているそばからカラダに力がみなぎってくるような気がした。

さらに翌日。今度は骨である。残ったヤギの骨を叩き割り、鍋に入れてぐつぐつ煮込む。骨の髄までいただく。できあがったスープは、スパイスで黄色く色づき、とろっとしていた。

ひと口すする。濃い。肉とはまた違う、骨の奥から出てきた旨みがある。脂も強い。野性味もある。カトマンズの自宅でこれを出されたら、少しひるんだかもしれない。でも、ここでは違った。標高4,000メートル。朝晩は冷え、毎日ひたすら歩き、食事は質素なものばかり。そんなカラダには、このくらいがちょうどいい。むしろ、もっと来いと思った。

この瞬間、私はヤギを好きになったのだと思う。

べつに、それまでヤギを食べたことがなかったわけではない。ネパールでは珍しい肉でもない。それなのに、あの晩のヤギ肉とスープは、妙に深く記憶に残っている。

なぜだろう。考えていて、ふと思い当たった。もしかして、吊り橋効果?

恐怖や緊張によって高まったドキドキを、目の前の相手への好意と取り違えてしまう。恋愛の話でよく聞く、あれである。

標高4,000メートルを歩きつづけて心拍数も上がっている。疲れている。腹が減っている。肉に飢えている。そこへ突然、ユキヒョウに襲われたばかりのヤギが現れた。私の高揚は、ヤギへの恋心へと変換されてしまったのかもしれない。そう考えると、あの肉があれほどおいしかったことにも説明がつく。

ベジか、ノンベジか。野菜か、肉か。いや、私にはもうヤギしか見えない。

根津貴央

ハイキングが専門分野のライター。
2012年にアメリカのロングトレイル「パシフィック・クレスト・トレイル(PCT)」を歩き、2014年からは仲間と共にネパールの「グレート・ヒマラヤ・トレイル(GHT)」を踏査中。著書に『ロングトレイルはじめました。』(誠文堂新光社)、『TRAIL ANGEL』(TRAILS)がある。
2025年春にネパールへ移住し、いまはカトマンズの暮らしを楽しみながら執筆を続けている。ネパールの地酒・チャンが大好物。