
ここ数日、棚田を歩いている。
季節は11月の頭。ちょうど収穫のまっただ中で、黄金色に垂れた稲穂が、畑にびっしり並んでいる。私はその稲の隙間を縫うようにして歩いていた。
道はない。地図を見ても線は引かれていないし、足元にそれらしい痕跡もない。ただ、人が行き来してきたであろう気配だけが、なんとなく残っている。
農作業中の村人を見かけるたびに声をかけ、次の村への行き方を尋ねながら、少しずつ進んでいく。目指すのは、1日で歩いて行けそうなところにある村だ。
棚田を抜け、一本の道路に出たところで、遠くからこちらに向かって歩いてくる人影が見えた。農作業帰りらしき女性だった。
近づくにつれて、その姿がはっきりしてくる。背中にはドッコを担ぎ、片手にはバケツを下げている。ドッコとは、ネパールでよく使われる竹製の背負いかごである。
私の存在に気づくと、女性は一瞬だけ訝しげな表情を浮かべた。無理もない。ここは観光地でもなければ、トレッキングルートでもない。こんな場所を、外国人がひとりでふらふら歩いている理由など、思い当たらないだろう。
私は先手を打って、できるだけ感じのいい笑顔で「ナマステ!」と言った。すると「ナマステー」と返ってきた。どうやら、不審者認定は免れたようである。
ドッコの中には、収穫した農作物がぎっしり詰まっていた。時刻はまだ10時過ぎ。朝から相当働いてきたに違いない。ごくろうさまです、と心の中でつぶやく。
手に下げたバケツのことは、最初は気にも留めていなかった。農作業で使用する鎌か何かの道具か、あるいは堆肥でも入っているのだろう、くらいに思っていたのだ。次の村への道を尋ね、いくつかやり取りをしている最中、ふと視線がバケツの中へ落ちた。上から中身が見えた。
あれ……? そこに入っていたのは、黄色味がかった、濁った液体だった。私の想像していた農作業用バケツの中身とは、だいぶ違う。
「これは、なんですか?」
そう聞くと、女性はこともなげに言った。
「チャンだよ」
チャン。穀物を発酵させて作る、ネパールの地酒である。まさか、農作業中の人がチャンを持ち歩いているとは思ってもみなかった。
思わず声が大きくなる。「えっ、チャン !? 僕、チャン大好きです!」
すると相手の表情が、ふっと緩んだ。そして一言、こう続けた。「飲むかい?」
飲まない理由が、どこにも見当たらない。農作業中の人が飲んでいるチャンなんて、飲んでみたいに決まっている。アルミ製のチャン用の器を借り、そこにチャンを注いでもらった。

そのときになって、私は重大な事実に気づいた。そのチャンは、樽でもボトルでもなく、バケツから注がれていた。この地方特有のチャン専用バケツかな? とも思ったのだが、よく見ると「asian paints」とプリントされていた。
どう見ても、どう好意的に見積もっても、塗料の容器である。たしかにネパールではバケツが好んで使用される。洗濯にも、水汲みにも、時には椅子にもなる。しかし、酒の運搬で塗料バケツが出てくるとは、さすがに想定外だ。
頭の中で、いくつもの考えが交錯する。
「よく洗ってあるに違いない」
「いや、でも塗料だ」
「いやいや、ここはネパールだ」
「そもそも、もう注がれている」
器の中で、黄色く濁ったチャンが、何事もなかったかのように揺れている。私は、意を決して、口をつけた。
うまい。めちゃくちゃうまい。
聞けば、トウモロコシで作ったチャンだという。それでこの黄色なのか(塗料の色が滲んでいるわけじゃなかった!)。粘度はやや高めで、少しどろっとしている。でもアルコール度数は低く、体感的には5度あるかないか。トウモロコシのやさしい甘みと、ほどよい酸味があって、驚くほどさっぱりしている。これはゴクゴクいってしまうやつだ。
それにしても、農作業中に酒とはどういうことだ? ふとビールのセゾンのことが頭に浮かんだ。セゾンは、もともと農作業中に飲まれていたビールだ。まだ水の衛生状況がよくなかった時代、低アルコールのセゾンが水代わりに飲まれていた。そんな話を、どこかで聞いた覚えがある。
ネパールもまだ衛生環境が十分とは言えない。だからチャンを水代わりに……。私はひとりで深くうなずいた。
後日、この話を農家であるネパール人の友だちにしてみた。
「農作業中にチャン飲んでるの、初めて見たよ。あなたも飲むの?」と聞くと、友だちは即答した。
「もちろん! 農作業はしんどいから、チャンでも飲まないとやってられないよ」
「え、水の代わりに飲んでるんじゃないの?」
「違う違う。たのしみのためだよ。休憩のときにチャンを飲んで元気を出して、また農作業をがんばるんだ」
そういうことなのか! これはあくまで一人の話だし、みんながそうかはわからない。でも、しっくりきた。ネパールの田舎では、農業が生活の中心にある。毎日、あたり前のように畑に出る。でも、やっぱりしんどいのだ。そのしんどさを支えているもののひとつが、酒でもあるのだ。
なんだ、私たちと変わらないじゃないか。かつての自分もよく仕事終わりに酒を飲んで、気持ちを切り替え、また明日がんばろうと思っていた。
さすがに仕事中には飲まなかったけれど、チャンくらいの低アルコールなら、仕事中に飲んでも差し支えない気がする。むしろ、いい仕事ができるのではないか。
そう思い、私はさっきチャンを飲んだ。旅の話ではない。この原稿を書いている、まさに今の話だ。
果たして、いい仕事になっただろうか。それは、読者のみなさまに委ねたいと思う。




