五月に入ると、外を歩くだけで季節の変化がはっきりわかります。朝の風は少し湿り気を帯び、木々の新緑が日に日に色を深めています。
蔵の庭では菖蒲や黒花蠟梅が静かに咲き始め、その色づきが季節の歩みをそっと教えてくれます。そんなやわらかな気配が蔵の空気にもゆっくりと染み込んできます。光の色が冬とは違い、どこか丸みを帯びてみえる日が増えてくると、「ああ、造りの季節が終わりに近づいてきたな」と思うのです。
その頃、山の壽では最後の醪が上槽を迎えます。タンクの底が見えた瞬間、蔵の空気がふっと軽くなります。そして瓶詰の作業が進むにつれ、蔵の中には“ほっとした空気”が流れ始めます。緊張と集中の季を越え、ようやく迎える静かな安堵。その空気が蔵を包み込みます。

造りが終盤を迎えると私の中にもひとつの区切りが訪れます。長い冬をともに駆け抜けた緊張がほどけ、ようやく深く息をつける瞬間です。久しぶりの休みの日、主人と息子が一緒に仕入れてきたアオハタを台所で捌いてくれました。格闘している賑やかな声を聞きながら、私は好きな日本酒やワインを少しずつ注ぎ、捌かれたアオハタを料理しながらお酒を楽しむ。家族の会話と、お酒の香り。そのすべてが、冬の造りを終えた身体にそっと沁み込んでいきます。蔵の緊張とはまったく違う、やわらかい時間。このひとときがあるからこそ、また次の造りへ向かう力が湧いてくるのだと、毎年のように思うのです。

そんな季節の入り口に、山の壽の夏の風物詩ともいえる一本が静かに姿を現します。「山の壽 純米酒 夏酒」。 福岡の飯米「夢つくし」を使い、14度で仕上げたこの夏酒は、瑞々しくさっぱりとした口当たりで、さらりと喉をすべり落ちていきます。 “心地よくスッキリ切れる辛口”というコンセプトの通り、軽やかでキレのよいボディが、初夏の風のように食卓に寄り添います。 夏野菜やお酢との相性はとてもよく、茄子の揚げ浸しやトマトのマリネ、酢締めの魚など、これからの季節の食卓をやさしく引き立ててくれる一本です。
これから各地の酒販店様との対話が始まります。今年の味わいをどう伝えるか、どんな食卓に寄り添うのか、お客様はどんな表情でこの酒を迎えてくださるのか。蔵の中で育った酒が、外の世界でどんな“Good Times”を生むのかを想像しながら言葉を交わす時間は、私たちにとって大切な学びの場でもあります。
一方で、蔵の中では設備と向き合う時間が始まります。変えるべきところは変える勇気を持ち、変えてはならない部分を守る覚悟を持つ。その線引きは、いつも簡単ではありません。新しい設備が入ると、蔵の空気がわずかに張りつめます。未来の音が、伝統の静けさの中に混じり始める瞬間です。けれど、その緊張の奥には、山の壽が次の造りへ進むための確かな手応えがあります。
春から初夏へ。季節が静かに移ろうように、蔵もまた次の一年へ向けて息を整えていきます。旅立ったお酒たちが各地で人と出会い、蔵の中では新しい準備が始まる中、ふと考えます。 次の山の壽からは、いったいどのような景色が見えるのだろうか。 その答えを探す長旅は、これからも皆で静かに続いていきます。




